日テレのニュース番組で、東京・山谷のホームレス対象のホスピスを特集してた。
末期がんなどのホームレスの終末医療
「いろいろな事情でそういう境遇に陥った人でも、せめて死んで行く最後には
自分が生きてきたことを肯定して行かせてあげたい」という主張。
なんか感じさせられるものがあった。


ドラマ「スクールウォーズ」で脳腫瘍にて死期の近付いたイソップが自暴自棄に
なって、「どうせ死ぬ人間だから構わないでくれ」と言ったとき、滝沢先生が
ボールをライン際に起き、「お前はこのラインを切ろうとしてるボールを諦めて
追いかけないのか。たとえ負けると解った試合でも最後の最後まで戦い抜くのが
男だとお前は言ったじゃないか」と説得するシーンがあったのを思い出した。


大阪の児童殺傷事件の宅間守が死刑判決を受けたのを弁護団が控訴しようとし、
しかし宅間自身は死を望んでるから控訴を取り下げようとしてる。
弁護団は、罪の意識を持たないまま贖罪もせずに死刑にしては裁きの意味が
無いとしての控訴の希望。
そして犯罪者であるはずの当の宅間にとっては死刑こそが望む道。
こうなるともう死刑って制度自体がよくわからなくなってくる。


先週末のNHKアーカイブスで、サリドマイド薬害によって両腕がなく産まれて来た
子の中学から高校への生活を追いかけたドキュメンタリーを見た。
五体満足の者から見れば致命的なハンデに見えても、当の本人は何も変わること
なくまったく普通に生活してる。
甲子園では片足が義足の球児が活躍してた。WWEでは片足のレスラーが屈強な連中
相手にプロレスをしてる。
腕が無い、脚が無いなんてことは人間が生きていく上で何らの影響も無い、些細な
ことらしい。
じゃあ死にたがる人は何で死にたがるのだろう。


死にたいと言う人に、生きる説得をする自信が無い。
何で生きなきゃいけないかという明確な理由なんて自分でもわからない。
強いて言えば人間が生きることは持って生まれた人間としての業だ、とでも言うの
だろうけど、それはそれで抽象的すぎて実感の無い意見。
じゃあもう死にたい人は勝手に死ねばいいじゃん、とも言えない。
15才で死ぬ人も90才で死ぬ人も、そこまでがその人の100%であって欲しい。
筋肉少女帯の「踊るダメ人間」のラストのフレーズ、「それでも、生きて行かざる
を得ない」という文句が頭の中でリフレインしてる。


僕はいつまで生きられるのだろう。まったく将来が不透明な生活の中で、生きてる
ことの存在証明だって危ういのが現在。
それでも、冒頭に書いたように「せめて死んで行く最後には、自分が生きてきた
ことを肯定して行く」ような納得を望んでる。そうでありたい。